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No.15|利益相反を考える

  • Four Ring Newsletter
  • 2013年09月08日

キーワード:カント、松井秀喜、ダルビッシュ、本田圭祐、兄弟仁義
カント 衝突する宇宙
 
帰属と利益相反
 今回のFour Ring Letterはややしつこくて屁理屈じみた話になることを許してもらうこととする。今、興味がない先生は、いずれかの時期に読んでもらえれば十分である。


 前回のこのFour Ring Letterで、仕事と個人としての生活のバランス—Work and Life Balanceのことを述べた。あの時から、自分の中で釈然としないものがあった。それは、個人が帰属意識を有する共同体の議論なしに、Work and Life Balanceのことは考えられないと思っていたからである。
 自分自身を振り返っても、家族の一員としての生き方(夫であったり、親であったり、子供であったり)と、北大脳外科の教授としての立場、あるいは、病院の執行部としての立場、日本脳神経外科学会理事としての立場、そして、一医師としての倫理観・・・これらが瑕疵なく整合するような柔軟でかつ強固な哲学は存在するのかと・・・思い悩んでしまった。そう思い悩んでいた矢先、Novartis Pharmaの論文不正疑惑問題が起こった。
 私達は、現実の生活では、実に多様な立場に立ち、多くの肩書きを持ち、複雑な利害関係の中で生きている。まさに、衝突する利益、利益相反(COI, Conflict of Interest)の渦中で毎日を送っている。「ヒト」の生物としての定義の一つとして、「ヒトは多様な利益相反の中で生きる動物」と言う定義も、決して的を外していないように思う。
 Novartis Pharmaの論文不正疑惑問題が大きな社会的注目を受けてからは、これまで、面倒で手続き的で踏み絵程度に理解していたCOI問題が、切実な形で、僕たちの日常に突きつけられてきた。真実の解明は、今後の調査を待たなければならないが、マスコミの多くは、データが不正に改竄されたことを取り上げ糾弾している。ただ、あの不正なデータ操作は、利益相反とは無関係であり、誰が犯人であろうが論外の犯罪行為である。
 しかし、問題の本質は、データの改竄にあるのではないと僕は思う。仮に、この事件でデータの捏造がなかった場合でも、この事件は依然として、深い利益相反問題を内在している。つまり、企業人として、企業の理念に従っている人間が、薬の効果と言う公益性の高いデータを主体的に処理していたこと自体が利益相反に当たる。これは、共同体・組織に帰属する人は、無条件の真実を語らない(可能性が高い)と言う「仮定」に基づいている。発言や論文の内容が、意図的に、企業側の利益の擁護を指向し、薬品の本来の受益者であるべき「患者」の利益と相反するはずだという仮定に基づいている。論文の内容が真実であるかどうかではなく、前提として信憑性がないと主張するのが、「利益相反」の考えである。ある組織・企業(本例ではNovartis Pharma社)の利益と、社会・国家の公益性(今回の例では高血圧症の患者の利益)を同時に達成すること自体が不可能であり、その相反する立場に身をおいた状態が「利益相反」と言われる状態である。
 「人間とは、帰属する組織によって、行動の原則・規範を変貌させて生きる生き物」であるということを前提にしない限り、利益相反の概念は成立しない。このことを考える際、逆説的に、カントの倫理学を思い出すと理解が容易になる。全ての人間がカント的な定言命法に殉じているという世界を想定すれば、どんな組織に所属していようと、利益相反は、決して起こるはずがない。そもそも、カントの倫理学では、人間の行動は、無条件の義務によって規定され(定言命法)、「帰属する組織」という条件によらない(そうあるべき)としている。カントの倫理学に従うなら、僕が、会社に雇用された人間であろうが、大学人であろうが、データの示すことを粛々と述べることに変わりはない。言い換えれば、製薬会社の被雇用者であっても、その製品に関する論文を書くことに何の利益相反も発生しない。
 何しろ、カント先生の世界は深淵で厳粛・厳格であり、僕の理解が浅薄かもしれないが、利益相反が発生しないのがカントの世界観である。しかし、複数の利益相反あるいは、理念の相反に引き裂かれるのが我々凡人の煩悩の日常である。もし、カント先生がご存命であれば、是非とも(ここは真剣)、教えを乞いたい難問がある。それは、「組織に帰属することと、定言命法に殉じた生き方は、両立できるのか」と言う問いであり、僕を悩ませ続けている。言い方を変えれば、少なくとも、何らかの組織、社会の仕組みの中で生きるのが人間である以上、利益相反は程度の差はあるにしても、不可避ではないか・・・・僕の深い悩みである(病院長先生、そんなことに悩む暇があったら、今月の経営速報でも見てくださいという声が聞こえそうである)。
 多様な共同体へ帰属しつつ生きるのは、容易なことではない。それにも拘わらず、ほとんどの人が、社会の中で共同体に帰属して生きてゆくのを選ぶのは、その方が、平時は、複数の共同体への帰属のバランスを取ることが必ずしも困難でなく、むしろ、その方が、快適だからだ。言い換えれば、程度の差はあるが、人は誰しも、帰属と言う点では、日常生活では、二重生活、三重生活をしている。しかし、日常が揺らぎ、利益相反が顕在すると、複数の共同体への帰属という多重生活に破綻が生じ、選択を迫られる。
いくつかの先行研究が示すように、この帰属意識の強さと「幸福感」は極めて強い相関があり、統計的解析でも、p値は0.001を切る研究が多い。言い換えれば、帰属している共同体への強い帰属感覚が「幸せ感、well-being」と深く結びついている。研究も、診療も、あるいは、経営努力も、自分が帰属していると考える共同体のためでなければ、実は上がらない。そして、帰属している組織との一体感の強さが強ければ強いほど、幸せ感は大きい。
 任侠映画のストーリーに共感するのは、そこに、主人公が、最終的に、ある「一個の」共同体の理念に殉ずる潔さを感じるからだと思う。「草履を脱ぐ」というセレモニーがあるが、それは、任侠の世界での共同体への帰属を意味する。その共同体(義理)と個人としての帰属(人情)の間の利益相反をどれほどドラマティックに描くのかが、この種の映画の成否を決める。名作、「兄弟仁義」で、栄次郎が仇を晴らし、自首するラストシーンの清清しさは、一つの共同体への帰属が至福の幸福感をもたらすことを描いている。

2)帰属しない生き方は可能か?
 この帰属と利益相反の問題は、逆の視点からも見ることができる。つまり、そもそも、帰属する共同体を設定するから、次々と利益相反などというややこしい問題が発生するのだとすれば、組織に帰属しない生き方が、定言命法的生き方を実現する現実的な方法ではないかという仮説である。良い例が、極めて才に恵まれたスポーツ選手や、有能な科学者、企業人である。そして、その中には、その行動を見る限り、組織への帰属意識を全く感じさせない人々がいる。組織に依存することなく生きる、類まれな才能の人間達である。
 サッカーや野球などのプロ選手が、移籍した途端、前のチームのことなどは、全く眼中になくなり、「チームの勝利のためにベストを尽くす」というコメントを聞く度に、何か、嫉妬のような居心地の悪さを感じてしまう。もちろん、帰属する共同体を易々と変更できる才能と恵まれた環境への幼稚な嫉妬もある。たかだか、ボール蹴りに才能があるだけ、あるいは、野球のボールを遠くに飛ばす才に恵まれただけで、高額な報酬を受け取り、世間から熱い視線を受け、しかも、帰属する組織を渡り歩くことにある種、正義に反するものを感じてしまう。もし、サッカーや野球が存在しない世界を想定すれば、彼らの才は、全く意味がない。言い換えれば、彼らが一般人からすれば天文学的な報酬や名誉を得ているのは、もちろん、類まれな才能ゆえではあるが、サッカーや野球といった「ゲーム」の存在に100%依存している。個の能力が、たまたま、この時代のある特殊なゲームの中で開花しただけである。このことは、マイケル・サンデルがいやと言うほど述べている。
 しかし、僕のこの不快感は、実は、もう少し複雑で根深く、屈折している。例えば、松井秀喜が巨人から移動して、ヤンキースに移籍した最初の試合での満塁ホームランの直後のインタビューで、「ヤンキースのワールドシリーズ優勝のために・・・For the teamの精神で、個人の成績は関係ない」とコメントした際の僕の居心地の悪さは、彼が運命共同体を巨人からヤンキースに移動したからではない。松井選手には申し訳ないが、むしろ、そのコメントそのものが、空々しく聞こえたからだ。あの善人の松井選手が、意図的に嘘を言ったとは思わない。むしろ、そういうコメントが、我々の望むベクトルにすり寄る方向であることは、彼が無意識に知っていたことにその本質がある。本来は、チームなんかどこでも良い・・高い自己実現(名誉、キャリアアップ、給与)と言う本来の目標が透けて見えてしまうからである。つまり、共同体を持たない自己中心主義(エゴイズム)が頭をもたげているように見えてしまうのである。その意味では、強烈なエゴイズムを正直に表現して大リーグに移籍したダルビッシュのコメントの率直さの方が遥かに潔かった。
 モスクワのCSKAで唯我独尊のオーラを放つ本田圭祐の行動や発言に至っては、自己中心主義をすでに隠蔽していない。僕は、個人としての本田圭祐という人間を知らないが、彼が運命共同体と考えているのは、少なくとも、ヨーロッパの辺境にあるロシアのサッカーチームでないことは明々白々である。
共同体への帰属意識を持たず、自己実現を徹底するのが、フリーランス(freelance)と言われる個人事業者である。その語源は、金銭で雇われた中世の傭兵である。「自己実現」(全てではないが、金銭的報酬の多寡がしばしば尺度となる自己実現)のため、組織に所属しない人々である。現在、日本の就業人口の40分の1がこうしたフリーランスあるいは、フリーランサーと言われる人々である。彼らは、少なくとも、地域や組織を運命共同体とは考えていない。
 こう述べてくると、僕が、共同体への帰属意識のないフリーランスを容認し、むしろ、こうした共同体にしばられない自由人を肯定しているように思われるかもしれない。しかし、時代のゲームルールにたまたまぴったり適合した才能を持った人間の、帰属する共同体に因らない幸運な自己実現に対して、違和感を持つ人は、僕を含めて決して少なくない。
確かに、帰属する共同体を持たずに、自己の才能と責任において、失敗も十分にあり得る(むしろそれが普通である)自己実現への挑戦を続ける姿は、潔いように思われる。ある意味では、それが、社会全体の幸福や正義と整合するのであれば、まさに、カントの定言命法的生き様そのものである。
 しかし、共同体に帰属しないことは、共同体を分割し、弱体化し、やがては、フリーランスですら拠って立つべき基盤を消滅させることになる。「個人」の利益を追求するフリーランサーのように帰属する共同体を持たないことは、個人の自由が最大限に実現するような錯覚を与えるが、実際には、結果として、その人が生きてきた、あるいは、根ざしてきた共同体を破壊することになる。そして、それは、最後に最初のドミノを倒す、振り出しに戻るドミノ倒しのように、結局、最後にはフリーランスの自由を根底から奪うことになる。サッカーが我々を熱くし、野球が人々を熱狂させ、多大な金銭的報酬を得るマネーゲームが存在しうるのは、共同体が健全であってこそ、である。
 現在、私達の医学・医療の領域の一部の専門診療科で起こっておる、医師のフリーランス化によるカオス的な事態は、このことを雄弁に物語っている。
 世界が、ダルビッシュ、本田圭祐ばかりになることは、今の競争社会ではありえないので、杞憂なことかもしれない。しかし、自律すべき医師のような集団のmajorityがフリーランス化し、経済的報酬や個人の自己実現のみを最終ゴールにするような状況は、善良な医療社会を破滅させる。そうした危機感とそれに対する抵抗を、日本学術会議のある委員会でまとめたものがあるので、是非、時間があれば、読んでほしい。

文献
北川夏樹、藤井聡 共同体帰属意識と主観的幸福感の規定因に関する研究
カント 純粋理性批判<1><2> 光文社古典新訳文庫
マイケル・サンデル これから正義の話をしよう ハヤカワ・ノンフィクション文庫
日本学術会議 全員加盟制医師組織による専門職自律の確立—–国民に信頼される医療の実現のために http://www.scj.go.jp/ja/info/index.html