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No.19|学会を考える 個人—-結社・団体—-国家

  • Four Ring Newsletter
  • 2015年08月06日

1. お詫び

 

Four Ring Letter、ずっと開店休業を続けてきた。恥ずかしい限りである。
こんな長い休稿は、かつてないことである。そんなことはまずないと思うが、「宝金先生、体調でも崩されたのでは?」と、数少ないファン(ファンがいるなどと、思い上がりの妄想で恐縮です)にご心配をかけたとすれば、深くお詫びするしかない。
まず、心身の健康面ではご心配なく。体調は万全で、筆を下ろすような格段の出来事があったわけでもない。単なる筆力の低下というスランプと入力の怠慢が原因である。僕の場合、執筆の意欲が沸くのは、優れた外的な情報が入力され、生来貧弱な執筆欲が鼓舞された時だけである。傾聴すべき意見や瞠目させられる本に出会った時であり、つまり「入力」が必要である。飛行機に乗れば数秒以内に睡眠状態になり、休日には生産的なことができないような状態で、漫然とこの数ヶ月を過ごしてきた。

趣味を持っている人間は、しばしば、一年を趣味に関わるイベントでカウントする習性がある。最後にFour Ring Letterを書いたのは、昨年の11月である。あれは、自画自賛ではあるが、力の入った力作であった。このFour Ring Letterシリーズの中でも、傑作であったと自負している。競馬ファンは、一年の流れをG1競争と言われる大レースに合わせて理解しているものである。お正月の「金杯」から始まり、暮れの納めの有馬記念までが、一年なのである。正直白状するか、あの11月のFour Ring Letterで大層な競馬論を展開し、Japan Cupという大一番の優勝馬、エピファネイア号をぴったり予想して以来、ピタリと筆が止まってしまった。もし、その後、有馬記念、あるいは、春の天皇賞、皐月賞、ダービーなどで、華麗なDNA論が再度証明できれば、早速にでも思い上がった続編を書いていたに違いないのである。残念ながら、年末の有馬記念競争、春のクラシックと連戦連敗であった。その中で、人に恥じない文章を書こうなどと思えば、ついぞ構えてしまい、空白の期間を作ってしまった。教室員の範となるべき人間がこのようなことで深く反省する次第である。

 ただ、僕の周囲の方々は、よくご存知と思うが、身の丈を超えた大きな学会を二つほぼ同時進行で引き受けたことが、このFour Ring Letterの空白の最大の原因であった。二つの大きな学会(第74回日本脳神経外科学会、第41回日本脳卒中学会)がひたひたと迫っている。毎朝、悪夢で目覚める。学会初日の朝、会場に行って見ると、会場の受付前で大勢の会員が大混乱状態にあり、会長の無能を罵り、真っ白で印刷されていないプログラムが散乱しているというこれは、実にrealityのある恐ろしい夢である。目覚めた瞬間は、たいていベッドから落ちている。そこで、この数ヶ月、小心者の私から安眠を奪った「学会の成功」なるものを考えてみたい。このテーマの設定、実に泥縄的ではあるが、タイムリーであり、この空白の言い訳に相応しいテーマである。

 

2.学会の成功

生来のpessimistic optimistである。この言葉は、敬愛する恩師である中田力教授(現在、新潟大学特任教授)から学んだ処世訓である。一言で言えば、何一つ追い風になる情報がないにも関わらず、「最後には何とかなる」という根拠のない楽観主義である。国立競技場の件で、政治家の愚かさに翻弄されている東京オリンピックなどの文部省関係者なども、「最後は何とかなる」と腹をくくらなければ、全員が深刻なうつ病になってしまうに違いない。
そもそも、何かの大きな学会の成功とは何なのかと思う。論理的に考えると、

1,学術的な成功
2,財務的な成功
3,親睦会的な成功
4,メッセージ的な成功

くらいに分けられるように思う。
どれも、背反するわけではないが、両立しない部分も多い。学会の本来のmissionである科学研究の情報交換を中心に据えると、レベルの高い選りすぐりの演題に絞込み、採択率を極限まで下げ、学会員以外でもその領域の超一流の演者を招聘して、当代随一の講演を拝聴できる学会とすべきである。例を挙げれば、アメリカ脳神経外科学会(AANA)などは、採択率が40%程度であり、凡庸な演題は駆逐され、異論もあろうが、症例報告は全く採用されない。このアカデミズム至上主義の最大の効用は、発表内容が最高レベルとなり、演題数も極端に少なくなるため、十分な発表時間が確保され深い議論と理解が触発されることである。まさに「学術的な成功」である。やや話がそれるが、こうした競争原理を強化して資本と時間を特定の場所に集中するには、現在の日本の文部行政の方向性でもある。一方、この最大の欠点は、学会が学会員の全員参加型ではなく、その時点における到達点に達した限られた会員の発表を残りの会員が受動的に聴くだけになる点である。
 これに反して、倫理的違反などの極めて限られた演題以外をall comerとして採択する方式を取ると、発表のレベルは低下する。その時点での最高の到達点となる発表も集まるが、多くの夏休みの自由研究レベルの演題に埋没し、その輝きを失うことである。これは、プログラムにおける工夫で、ある程度克服できるが、前者のような高い学術的成功を得ることは難しい。
しかし、このall comer方式は、上記の2の財務的な観点からは、大きな成功をもたらす。会場には多くの発表者が集い、全員とは言わないまでも、会員参加型の賑々しい会となる。当然のことながら、会費収入も得られ、財務的な成功も約束される。老若男女の会員が集まり、さながら巨大な同窓会の体をなす。3の親睦会的な成功も間違いない。
4のメッセージ的な成功という種類の成功があるかどうかは、異論があるところだと思う。それは、私の理解では二つのパターンがある。一つは、会長あるいは学会を主導する側のメッセージが強くその会で会員内部に浸透した場合と、もう一つは、学会内部に向けてではなく外部社会に対してメッセージが発信され、それが、一定程度に広く広報された場合である。
最近は、「社会」「発信」「責任」「自律」などのキーワードの入った学会テーマが目立つ。これほど多様な学問領域が分化し、ある意味、乱立している現在において、アカデミア・学会が社会や会員に対して発信するメッセージはその数だけ薄まってしまうのが現実である。その意味で、今年の春の脳卒中学会で、広島大学の松本教授が、「広島宣言」を出されたのは、敬服に値することだと思う。ただ、これだけメッセージが氾濫している学会乱立の現状において、「宣言」をどのように社会に浸透させていくかという戦略は非常に難しい問題である。


3、学会と公権力

ここ半年あまり、僕の乏しい筆力をさらに奪い、小心者の僕を不眠に追いやった「学会」であるが、インターネットやそれこそBig DataがありふれたPCの端末からも世界の隅々の膨大な情報が得られる時代に、「学会」というイベントに過大な期待するのは筋違いではないかと思っている。そこで、ここは思い切りよく、3と4の意義を求めてもいいのではないかと考えている。
 「学会」、「学会」と、ことある毎に錦の御旗のように連呼されると、「学会」なるものを知らない世界の人々(例えば、僕の家族やゴルフ友達、事務系の病院職員)などからすれば、「学会」は訳の分からない、得体の知れないものに違いない。あるいは、「何か理由は不明であるが、医者にとってはものすごく大切なもの」というような理解しかないような気がする。
本来のアカデミズムの立場から言えば、本邦の医療界における学会の数の多さは常軌を逸している。また、日本では組織体としての「学会」と年次総会のようなイベントを「学会」と同じ単語で言うが、これを英語で言うと、SocietyとMeetingという全く別の言葉で示される。ただ、私たちの暮らす日本では、このことは峻別されているわけではない。学術団体としての学会の数だけ学術集会(イベント)があり、そのデータについて、機会があれば調べてみたいと思っているが、ただ、多すぎるだろうという確信がある。
この国は幸い、今の時点では、学問の自由が保障され、学会設立に特別な制限はない。法人化(一般社団法人にしても、公益法人にしても)した場合でも、監査内容は財務とコンプライアンスの確認程度である。学術業績や社会貢献に関する厳格な監査はされていない。言わば、学問の自由の名の下に、オートノミーのない、制限のない自由な設立が放任されている。言わば、足枷のない結社の自由であり、それこそ、フランス革命後の政府が最も忌み嫌ったのが、この結社である。それは、公権力と個人との契約関係に介在し、個人の自由の制限と引き換えに、公権力に対しても制限する力を保持するものである。こうした権力と個人の関係の間に別組織を介在させるかどうかをめぐっては、長く激しい議論の歴史がある。
身近なところでは、専門医機構という国の公権力機構に対して、多くの「結社」である医学系の学会が、全体として強い警戒感を持っている。これは、本質的に、こうした結社の本質がそこで危機に晒されていることを無意識に感じているからである。学会の実質的な空洞化と解体によって、剥き出しの個人と国の公権力の直接の契約関係を取り戻そうという意図が見え隠れするからかもしれない。
僕は、これまで学会が果たしてきた役割を極めて高く評価している。学会の自律は、構成員が死守すべきものであると考えている。その一方で、あまりにも細分化して、「個人化」した学会結社の乱立は、学会のオートノミーの自滅に繋がると危惧している。学会に自律を担保する内部統制の力がなければ、学会は社会からの支援を失い、公権力の前に平伏すことになる。


久しぶりに真面目に文章を書いて、力の制御が利かず、日本ハムの大谷投手の初回のような力みのため、何やら檄文のようになってしまった。所詮、学会の準備程度で不眠になる小心者であり、おそらく、学会が終われば失念してしまう幻の妄想と笑っていただきたい。
次回のFour Ring Letter。無事、第一関門の第74回日本脳神経外科学会を終えて、悪夢から多少は開放されて、また、ジャパンカップの予想でも書きたいと願っている。