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No.18|氏か、育ちか・・・

  • Four Ring Newsletter
  • 2015年08月07日

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1, ダーウィンとラマルク
 ひどく乱暴な物言いをすると、ダーウィンは、「氏」が全てを決めると言ったし、ラマルクは、「育ち」が決定的だと言った。
 20世紀の終わり頃まで、この論争はダーウィンの完勝で決着を見たかに思えた。ダーウィニズムは、DNAという最強の理論で武装し、ラマルキズムを蒙昧なる過去の遺物として完全に葬ったかに見えた。しかし、ご存じのように、DNA-RNAのセントラル・ドグマのど真ん中にepigeneticsという、極めて、ラマルク的な機構があることが発見され、形成は逆転しつつあり、勝負の帰趨は不確かなものになりつつある。おそらく、DNAという「氏」とepigeneticsという「育ち」を止揚するような新しいセントラル・ドグマの醸成が必要なのだと思う。ダーウィンの名誉とラマルクへの過剰な評価を避けるために追加するが、epigeneticsとラマルクを結びつけるのは、少々、強引であるし、依然として、ダーウィンの進化論が主役であることに間違いない。

 
2, ジャパンカップ
 話は唐突に下世話なレベルになるが、僕は、自他伴に認める筋金入りの「競馬ファン」である。10代の頃から一人前に競馬を評論してきた。大学卒業の春には、たった一頭の馬、サクラショウリを見るために、春の天皇賞競走行われる京都・淀の競馬場に足を運んだ。レースでは、惜しくも、サクラショウリは、カシュウチカラのロングスパートに屈し、二着に甘んじた。
自分の名誉のために言うわけではないが、「ギャンブル」としての競馬には全く興味がない。馬券(正式に言うと勝ち馬投票)も買う。当たればうれしいし、外せば、落胆する。しかし、穴狙いとか本命という狭い了見で競馬を予想してはいない。倍率を見て、馬券を買うことはない。単勝(一着の馬を当てる馬券の買い方)しか買わない。勝つ馬は、一頭だけであり、それは倍率とは全く無関係である(強いて言えば、乗り手・騎手が、人間である以上、倍率を意識して、人気になった場合にある種のプレッシャーが勝負を多少左右するかもしれない)。
 競馬は、「氏:DNA」のスポーツである。現在、世界の競走馬の全ては、その意味で、DNAで淘汰されてきた。もし、興味があれば、ネットでどんな競走馬の血統を追いかけてみるがいい。必ず、どこかに、「ナスルーラ」か「ハイペリオン」の名前を発見するであろう。言い方を変えると、今や、この地上に生を得ているサラブレッドは、全て、この二頭の子孫である。残酷な話であるが、より速く、より強いという一点で、サラブレッドは、人工的な淘汰を受けてきた。ブリーダーは、常に、最高の心肺機能と筋肉の瞬発力・持久力、調教順応性などの総和となる「競争能力」を追い求めてきた。その長い「氏:DNA」の選択と淘汰が、オルフェーブル、ディープインパクトに結実したのである。
 競馬ファンは、勝ったレースを針小棒大に話す。所詮、自画自賛の自慢話である。ただ、「氏」が、DNAが、現実の着順となって、最後のゴール板前を順番に通り過ぎる瞬間は、官能的でさえある。それが、自分が読み切った「氏」の結果と合致すれば、その興奮は、曰く言葉には変え難いものである。去る11月30日、日本で行われる世界的レース、ジャパンカップで、エピファネイア号が、並み居る世界の「最高の氏素性」を持つ名馬を退けて、圧勝した。

 自慢話になるから、ここは、読み飛ばしてほしい。エピファネイアの勝利を僕はかなりの確信を持って予想していた。もちろん、馬券も単勝で完勝した。配当は8.9倍であるが、そんなことはどうでもいいのである。父のシンボリクリスエスは、晩成タイプであったが、2400メートル以上の距離のレースでは無類のスタミナとスピードを示した。そして、母のシーザリオは、短い競走馬歴ではあったが、無事であれば、日本競馬史上最高の名牝になったと思うし、距離も長距離特性に秀でていた。府中の東京競馬場の長い直線の最後の200メートル。エピファネアイア以外の馬も、いずれも世界の名馬であるが、まるで足が止まって見えた。エピファネイアの脚色は図抜けていた。
もちろん、「氏:血統:DNA」だけで決着するほど競馬は甘くはない。レース展開、馬場条件、レース中の様々な大小の予想外の出来事、騎手の能力・・・など、あげればきりがないほど、氏とは関連のない要素が競争着順に左右する。
 だが、その全ての複雑系の要素を呑み込んで、最後の直線のたたき合いの決着をつけるのは、「氏:血統:DNA」だと断言できる。それは、単に距離特性だけではなく、最後の直線での勝ち負けになるための様々な要素(勝負根性、馬場に対する適正、順応性、訓練特性など)も氏:血統:DNAが決定している。

 
3, 素質の開花と埋没
 ここまで読んだ方は、僕がダーウィン主義者であると考えるかもしれない。あるいは、ゴルトンに代表されるような「優性論者」、はては、「人種差別主義者」へという悪意に満ちた評価をされるかもしれない。
 僕が競馬に傾倒するのは、必ずしも、こうした徹底した遺伝子選別を礼賛しているからではない。むしろ、その逆である。我が愛する競走馬達には申し訳ないが、人ではあってはならない「氏」による選別が、徹底した形で実行されている実践の現場を目撃することができるからである。そして、「氏が競走馬の能力を決する」という先ほどの主張と矛盾するようではあるが、これだけ、手の込んだ優性主義の実践、多様性の否定を行っている競走馬の世界ですら、それを裏切る、あるいは、あざ笑うような多様性と「氏」を裏切ると同時に「氏」を超えるepigeneticsの深さがあり、時に、何十万もの観衆を驚かせる。そこが、競馬の世界の深い魅力である。
 人間は、競走馬のような、競争能力という一つの能力で評価されることはない。まして、遺伝子選択がある目的のために行われることは、少なくとも、倫理的に許されてはいない。実に多様な能力が人間の世界では花開いている。ただ、おそらく、地道な努力や粘り強さ、打たれ強さのように、遺伝子とは関係のない能力も、深いところでは、ダーウィニズムと関係しているのではないかと思っている。それも素質であり、開花するかどうかは、epigeneticな影響を受けているかもしれないが、素質が最初から欠けている場合、開花することはないのかもしれない。おそらく、開くべき花が生来なければ、開かずに終わる花はあっても、忽然と花が咲くこともないように思う。それは、これまで、自分も含めて、多くの脳外科医の生き方や成長を目撃してきて、このことは確信している。

 ただ、二つ、許容できないことがある。まず、最初から自分にその才能がないとあきらめること、そして、本来、その才能が間違いなくあるのにそれを生かす努力をしないことである。
 人間は、競走馬とは違う。ただ、本来持っている多様な能力には、長いDNAの歴史が刻みこまれている。しかし、それを引き出す努力がなければ、間違いなく、この競争社会では一隅を照らすことすら夢のまた夢である。凡庸であることを軽蔑するつもりはないが、凡庸に満足することは蔑視に値すると思う。年末に苦言を言うつもりはないが、どうか、自分たちの能力を信じて、人知れずの研鑽を重ねたい。あの名馬の誉れ高い、最高のDNAを持った、ディープインパクトやオルフェーブル、あるいは、エピファネイアも真っ暗な夜明け前からの連日の激しい調教を重ねてきた。そして、楽勝したレースは数えるほどであるし、彼らを一敗地にまみれさせた、更なる名馬もいたのである。

   12月28日には、今年の最後を飾る、グランプリ・有馬記念競走が中山競馬場で行われる。エピファネイアも登録している。本レースを引退レースとした名馬が有終の美を飾る可能性も高く、ジャパンカップの再現は容易ではない。今年の最後の氏の対決結果を読み切りたい。完全予想で、気分よく、新年を迎えたい。